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「普通」のレールを歩めない!

自身の体験や経験などを淡々と綴る、あせんとのブログです。

読書という趣味について。

皆様おはようございます。あせんとです。

今日も今日とて、僕の趣味について書き綴っていきたいと思います。お目汚し失礼!

僕は読書も趣味の1つなのですが、実は、小説というものがほとんど読めないんです。フィクション作品というのは皆無と言っていいほど読めなくて、実用書とか、学問書とかを好んで読むんですね。小説が嫌いって訳では決してないんですけど、なんですかね、こう、実益に直結しない(と思われる)読み物は読むこと自体が苦痛に感じてしまうんですよね。時間の浪費に感じてしまうというか。......とかいいつつ、普段だらだらしてる時間が好きだったりするんですけどね。

それはさておき、例えばですけど、ファンタジーを題材にした小説とかって、現実に起こして考えること皆無じゃないですか。「この状況で水魔法が使えたら......」とか考える状況、まず無いですよね?え、何それ中二病ゲーム脳なの?って話じゃないですか。日本に住んでて(というか、どこの世界に住んでいても)、ファンタジー物によく出てくるドラゴンのモンスターに出くわす場面なんて、想像するだけ時間の無駄ってものでしょう。ゴジラじゃないんだから。

そういったファンタジー的なものから離れてみても、登場人物の仔細な心理描写とか、その世界の背景描写とか、読んでて、冗長だなーと感じてしまうんですよね。早く本題に入れよと。そんな訳で、僕の家には小説というものがほとんど無いんですね。......一応断っておきますが、決して小説他、文学作品をdisりたい訳ではないので、そこのところは誤解されませんよう。むしろ、僕は小説が読める人、楽しめる人に対してある種の憧憬のようなものがあって、純粋に羨ましいな、と思ったりもするんですね。楽しみの選択肢が増えていいなぁと。さらに言うと、僕は過去に小説が読めないことに対して多少なりのコンプレックスみたいなものを抱えていた時期もあったんですよ。「小説が読めないだなんて、人間としてどこか欠落してるところがあるんじゃなかろうか......」といったように(今では解消されましたが)。

僕は自分で自分のことを(ネガティヴな意味で)特異な人間だと思っていたのですが、どうやら僕のように小説を読む時間を時間の浪費のように感じている人は他にもすくなからずいらっしゃるようで、例えばホリエモンの愛称で有名な堀江貴文さんが「君がオヤジになる前に」という著書で綴っていたのですが、「小説にも役立つ部分はあるけれど、時間対効果が薄すぎはしないだろうか?」ということを語っているんですね。この文章を見た時に僕は胸にストンと落ちるものがあって、妙に納得してしまったのを覚えています。あぁ、そういうことだったのかと。

娯楽作品に時間対効果というものを求めるのも如何なものかと思いますが、やはり実益を先に考えてしまうと、小説が時間対効果が薄い傾向にあるのは否めないと思うんですね。僕の例で言えば、小説一冊読む時間があれば、心理学の教科書なんか開いて心理学の概念を1つでも覚えた方が、実利という観点からみれば、よほど有益に思えるわけです。

そういった理由で、小説がほとんど読めない僕な訳ですが、先に述べたように実用書とか学問書、あとは新書とか学校で使用されるような教科書、専門書なんかは楽しく読めるんですね。

前置きが長くなりましたが、そんな本好きなの僕が、読んでて「これは良書だ」と感じた本を一冊、今回はご紹介したいと思います。ベストセラーになってる本なので、ご存知の方もたくさんいらっしゃるかもしれませんね。精神科医であられた土居健郎先生の「『甘え』の構造」です。

 この本は、僕たちが日常的に一般用語として使っている「甘え」 なるものを、アメリカの欧米文化と日本文化とを対比しつつ、仔細に解き明かしていったものです。僕たち日本人は当たり前に「甘え」という言葉を使っているわけですが、土居先生が言うにはアメリカには「甘え」に相当する語句が存在しないのだそうな。例えば、「あの子は甘えが強い」「彼は甘ったれている」「彼女は甘えるのが上手だ」といったように、英語では表現することができないそうです。かといって、あちらの国では「甘え」にみられる現象が存在していないかといえばそんなことはなく、ごく日常的にみられる光景の一つだそうです。それに該当する言葉が無いのに、その現象は当たり前の日常としてみられるものである。不思議ですね。

また、土居先生は本書の中で「甘え」は二者の間で非言語的に依存的な関係性を形成するもので、それは同時に幼児性を内包しているものだと指摘しています。この点で、すぐ頭に思い浮かぶのが母親と幼児の関係ですね。幼児は決して母親に「甘えます」とは口にせず、母親に甘えますよね。互いがその関係性を好意的なものと理解し、そこを出発点としているからこそ、健康的に「甘え」られるわけです。そしてまた、自身に甘える子供を見て母親は「この子は今、私に甘えている」と非言語的に理解するわけです。この様な母子の関係性に限らず、僕たちは日常的に「甘え」のある関係性を形成していると思われます。恋人同士が仲睦まじく寄り添い合うのも、お互いがお互いを「甘え」られる関係性であると感覚的に理解しているからです。それは心地よい快感情を体験させるものであると同時に、お互いが好意を寄せている関係性であると理解しているから、しっかりと「甘え」られるわけですね。

僕の稚拙な文章だと伝わりにくいかもしれませんが、僕たちも日常的に「甘え」の関係を育んでいるんですよ。例えば、家を出る時にあなたが鍵を忘れてしまったとします。その時、家族の方に何と声をかけるでしょうか?「すみません。鍵を取ってもらえませんか」なんて堅苦しい言葉はまず口にしないですよね。「鍵取ってくれる?」がいいところでしょう。あなたには自分で取るという選択肢もあるわけですが、家族の方に「甘え」て取ってもらおうということです。前者では相手に遠慮している心象風景が想像されますが、後者では、家族という心気楽でいられる関係性に「甘え」ている心象風景が想像されます。このように、「甘え」は私たちの日常にごく当たり前に溶け込んでいる精神文化であると言えるのです。

本書は全318ページと中々のボリュームで構成されていますが、日本人論に興味のある方にはぜひ一読してもらいたい良書となっていますので、秋の夜長のお供にぜひ。

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